一里塚

学びの足跡

ワタシの一行(人間劇場:齋藤孝著 新潮社)

p37

切手の図柄と手紙の内容が微妙につながっているときなどは、贈るという技を感じる。

p78

「士は別れて三日なれば、即ち当に刮目して相待つべし」(『十八史略』)という言葉がある。三日の間にも相手は成長しているかもしれない。いや、成長しているはずだという気持ちで相手を待つ。その強い期待が相手の成長を促す。

p86

かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧ににみちびかるべし。

p122

「もしもおまへがそれらの音の特性や 立派な無数の順列を はっきり知って自由にいつでも使へるならば おまへは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだらう」

 楽器の特性を知り尽くして自由に使いこなすことのできる技。それを孤独の中で徹底的に身につけたならば、輝く天の仕事もできると言っている。賢治にとっての自由とは、何も負担がなかったり、抑圧がない状態ではない。技があることによって自由を獲得するのだ。ここでいう楽器は、仕事の比喩だ。どんな仕事にも技がある。生まれつきの才能だけで、そこそこ楽しんでいる人間には、強い仕事はできない。

p126

イチローは、上半身と下半身に一つずつポイントを持っていると言っている。自分の感覚と結果とを照らし合わせるためには、基準となるポイントを持つ必要がある。ポイントを持っていなければ、何がずれているかがわからない。自分の中に基準となる感覚を作るのが、練習の主なねらいとなる。

p128

孤独の中で技術を追求すること。その技術を自分の感覚の技化とセットにして捉えること。こうした作業は、どんな仕事をするにしても、重要なことだ。

p169

自分が何者であるかをはっきりと明言できるほどの何かを持たないとき、仲間と過ごす時間は大切だ。生産的には見えない時間で育まれるものがある。あこがれが目的に変わっていく時期に、子どもから大人へとアイデンティティも変わっていく。

p192

人はなぜ、人をいじめたりするのだろう。そもそも人間とは何者なのでろう。ペンを休め、私は凝然とそういうことを考え続けるのである。

p204

人の生命を支えることは、相手に共感を持って話を聞くだけでも、彼と楽しく優しい思い出をたった一つ、つくるだけでも、可能になる。ほんの小さなことでも、人の生命を守ることができるのだ。

p208

いじめは、純粋な一対一で行われることはほとんどない。複数で一人をいじめるのが普通だ。しかも、その周りをはやし立てる観衆が取り巻く。その周りに見て見ぬふりをする傍観者的な層が取り巻いている。森田洋司・清水賢二は、これを、いじめの「四層構造」と呼んでいる(『いじめ-教室の病い』金子書房)

p211

そして、「心を見つめる」ところから、「半歩踏み出す身振り」を技としていく構えへと向かう。心が押し流されそうにな状況に対して、ほんの半歩でも踏み出し抵抗する。そうした勇気のあり方もまた、何度か反復して練習することによって強固になる一つの精神の技である。

p243

「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」

p244

孔子は何よりも、エネルギーの燃焼を求める。道のためやるだけやって斃れるのならば仕方がない。しかし、斃れもしないうちから、エネルギーを出し惜しみする生き方を否定する。「今女は画れり」という一言は、強烈に今の若者たちの心にも食い込む。このごまかし方、心の弱さは、時代を超えて現れる心の癖だからだ。

p245

孔子の眼を自分の中に住まわせることで、自分を反省的にとらえる習慣を養うのだ。師という存在は、目の前にいるときよりも、いないときに、あるいは別れた後により大きな意味を発揮する者だ。

p246

藤田の人物の描き方は、まさに生のスタイルを捉える見方である。

p277

「奥さまの底知れぬ優しさに呆然となると共に、人間というものは、他の動物と何かまるでちがった貴いものを持っているという事を生まれてはじめて知らされたような気がして」自分もきっぷを切り裂くという件は、人の生き方の味わい方が深まるプロセスを教えてくれる。

p280

こうした「わかっちゃいるけどやめられない」なんともならない人々こそ、人生における極上のワインだ。

p282

人間を見る力を養い、世の中を泳ぎ切る力強さを身につける。この課題に対して、トレーニングメニューとなるものが私の場合は読書であった。

p283

テキストは一つではなく、二、三のテキストを比較しながら読むのが効果的であることも分かった。